『最近観た映画』
(area045 横浜の建築家 建築家のコラム第38回掲載文)
「エレニの旅」、テオ・アンゲロプロス監督最新作を観た。3部作予定の第1作目といわれる。 戦争の世紀と言われる20世紀を、それを生きたエレニ(ギリシャという国名の愛称でもある)という女性の半生記として描かれる。エレニとは同時代を生きてきた監督の母(この作品は彼女に捧げるとされる)に代わる存在でもある。 エレニはロシア革命のためにオデッサを追われ難民として故国を目指さざるを得なかった、親を失った少女として登場する。 画面奥からこちらに向けてゆっくりと近づいてくる、一団の人々。 見わたすかぎりの荒涼とした大地。白く、かがやくでもなく、ただ白く広がる天。 全員が黒っぽくコートに身を包みカバンをさげて沈黙のまま観客の目の前に止まる。 難民であることを告げるリーダーらしき人物の重く、絞り出すような、しかし威厳に満ちた声音。 クローズアップされる人物の貌にみる深い悲しみと虚ろさ、その中に最後の微光を見いだそうとする悲痛な意志を表す目。 監督定番の長回しといわれるロングショットの長~いワンシーン。 美しいシーンである。 そしてこれから観客が観るものが、悲しみに満ちた世界であろう事を了解せざるを得ない力がある。予定調和に過ぎる、というべきかもしれない。 決して恵まれた世界の訪れることのないエレニにとって唯一希望の存在は、引きとられて育てられた家の「兄」である。義父との関係は、ギリシャ的因習と限りない保守性のもとに、陰惨なものとなりエレナの不幸を加速する。成長し、やがてエレナは秘密に「兄」の子を身ごもって、父におわれながら彼らは村を出る。双子の兄弟を授かるものの貧しさから養子に取られてしまう経過、年を経て 再会し引き取るもつかの間に彼らの父である「兄」の太平洋戦争への出征。エレナはギリシャ内戦の反政府分子を匿った濡れ衣の投獄。出獄と同時に知らされる「兄」の戦死。やがて双子の息子同士は政府軍と反政府軍として敵味方となりそれぞれの戦死。戦争の歴史がそのままエレニの悲惨な半生を表し、最後は息子の亡骸を前に天を仰ぐエレナの絶望の絶叫で映画はおわる。遣り切れぬ思いが残る。ここには人間の、戦争する愚かさを描いて完璧なものがある。 にもかかわらず、「映画を観ること」の感動ができなかった。確かなテーマ。完璧なロケーション主義とリアリズム(エレニの暮らす村は、荒野に忽然と村を建設、スタッフが住み込んで生活感を創り出し時間を経て撮影し、洪水のシーンは広大な領域に水を引いて村を水没させた)。決してCG手法を用いない。リアリズムな映像とそれによる見事な象徴表現。随所に見いだせる他の巨匠の戦争を描く映画へのオマージュのシーン。殆ど監督のシンボル化している固有の表現である様々な美しいシーン(海と空、水そして逆光)。完成度の高く限りなく美しい、説得力にあふれた映像・・・。にもかかわらず観る事の充足感が自分には湧いてこなかったのはなぜか。観る者の期待を裏切らない、完璧なアンゲロプロス様式。予期せぬものに出会う驚きのない流れと形式性。 新たな表現に踏み出し、確信と畏れを持ちながら問う。という、観る者が共有できる余地がないのだ。 現在進行形の「戦争する世界」の愚かさを弾劾する、監督の別の映画「ユリシーズの瞳」を観たときにも同様な感想を持った。あまりにも重く、正当な主題の取り上げ方がそうさせるのか、予想に収まってしまう完璧な横綱相撲。それも含まれていながらストレートに戦争を描くことが主題ではない前作「永遠と1日」が、問うことの「完璧さ」に感動し充足するものであっただけに一層の満たされぬ想いが残る。建築の試みもまた然り、と思う。