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『最近観た映画:クリントイーストウッドの謎 』

(area045 横浜の建築家 建築家のコラム第94回掲載文)

太平洋戦争で日本本土爆撃の拠点となる(既に敗戦必至状況でありながら降伏せず、本土が空爆されやがて原爆投下となり短期間に想像を絶する犠牲者をだして日本はやっと降伏勧告のポツダム宣言を受諾する、その戦略拠点となった)硫黄島の攻防戦を、日米両サイドからそれぞれに描いた二部作である「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」を観た。話題作である。そして秀作というか重い作品を観たという確かな想いがしている。 いままで無数の戦争映画を通じて、英雄が、自己犠牲の崇高さが、ヒューマニズムが、惨禍の過酷さが描かれつづけてきたが、ここではただただ戦場の苛烈と狂気がリアルに描かれる。そのようにして、この戦いの背後にある“人間という、戦争する存在の愚かさ、避けがたく巻き込まれる悲惨”がむき出しに晒される。監督の言葉をそのまま使えば「このようにして人々は政治家に殺されつづけてきた。たった今も」ということを、声高にそれを弾劾するというのではなく、戦場の暴力の有様を克明に描く事でストレートに表わされる。あえて、戦争映画はあまり観てこなかったのだが、今まで観たものの中で、反戦であれ非反戦であれ「美化」する事の感傷の一切を避けてこのようにひたすら戦場そのものを描くリアリズムズを通じて人間の愚かさを訴えたものは極めて少ないと思う。小学生の頃鑑賞会で町まで皆並んで歩いた記憶のある「聞け、わだつみの声・・1950年、監督の名前がどうしても思い出せない!」が数少ないそれだ。 それにしてもクリント・Eがかくも解り易い映画を作るとは。泥沼化するイラク戦時下にある暴力国家アメリカの映画監督であれば当然? リベラル嫌いの彼がなぜ? 9・11直後のアメリカ世論の、それいけブッシュ、に同調していたともいわれる彼がなぜ? では、暴力国家アメリカを象徴する「許されざるもの」は暴力肯定なのか否定なのか?「ミスティク・リバー」のラストシーンで誤解に基づき殺人者となった主人公を親友の刑事がパレード中の舗道の対岸から手形のピストルで笑いながら撃つシーンはなに?「ミリオンダラー・ベィビー」で安楽死を犯す主人公が、その後静かに暮らしたんだとさ、とは一体?こう観てくると、この不可解さ、なぜ?がいかにもクリント・Eだと云うことに気付く。そしてこの解り易くみえる「二部作」にも彼の映画特有の、あの何とも知れぬ薄気味の悪さの漂う画面が突然あらわれることにも。「ミスティック・リバー」の明け方の薄暗がりの中で川面を浮遊する視点の画像、「許されざるもの」の強引な決闘に勝った主人公が深夜の土砂降りの雨中で星条旗を背景に「文句のあるやつは・・」と叫ぶ映像の、当たり前の情景の様な中で、ふっと気付かされる唐突さと不気味さは何を意味するのか。 強くてフランクでヒーロー好きのアメリカ的なるものを象徴するような俳優クリント・Eが、監督し表現することとなった時の不可解さと不気味さに引かれて彼の映画をみる。それはある人の示唆で最近になって気付いた、ミース・V・D・R建築の中にみる不気味さへの関心につながるものを感じているのだが。

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